そのあいだに折々ここへ来て入浴したので、遂にその湯も
あやめの名を呼ばれる事になったのであると。
またその附近に広い芝生があって、桜、桃、赤松、柳、
あやめ、つつじ、さくら草のたぐいをたくさんに植えさせて、将軍がときどき遊覧に来ることになっている。
ねぢ
あやめとも言ふ鳶尾草に似た馬藺を形つた金具のだしをつけたからの名であらう。
あの五月の端午の菖蒲のごときも、
あやめ・しやが・かきつばたなど一類の花を、女精のしむぼるとしてゐるのから見ても知れよう。
が、ふと彼に考えられたことは、
あやめが舞台から彼の袖の中へ、この独楽を投げ込んだということであった。
見物人は蜘蛛の子を散らすように逃げだして、このまま捨て置けば幾人人間が
あやめられるか分からぬ危急の状景を示してきたので、小文吾は矢庭に闘牛場へ飛び下りた。
音蔵が
あやめられていた場所は、浅草北松山町の火の見やぐら下じゃ。
当時の若衆形、沢村
あやめに似ていると称された美貌は、月光の中で蒼褪めて見えた。
潮來出島の眞菰の中で、
あやめ咲くとはしほらしやと歌はれたる烟華の地、燈光絃歌と共に水に落ち、園邊川依然として今に臙脂を漲らす。
浮島に風光を賞し、潮來出島に
あやめを看、鹿島、香取、息栖の三祠に詣で、大利根川の下流に浮んで銚子に下る船中、富士迎へ、筑波送る。