「どうだい、あの腰つきは」「いい気なもんだぜ、どこの馬の骨だろう」「おかしいねえ、
あらよろけたよ」「一そ素面で踊りゃいいのにさ」——ざっとこんな調子である。
本所の印象記の一節にかういふことを加へるのは或は私事に及び過ぎるで
あらう。
のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないで
あらう。
その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るで
あらう。
さうして細い金属の箸で、青い花の描いてある手のひら程の茶碗から、米粒を挾んで食べてゐるので
あらうか。
或は国際間の平和も、これから促進されると云ふ事があるで
あらう。
なれど親の代から「ぜんちよ」(異教徒)の輩で
あらなんだ事だけは、手くびにかけた青玉の「こんたつ」(念珠)を見ても、知れたと申す。
惟ふに予が過去を点検し記載するは、予にとりて再過去の生活を営むと、畢竟何の差違か
あらん。
彼はこの時、偶然な契機によつて、醜き一切に対する反感を師匠の病躯の上に洩らしたので
あらうか。
是平氏が其運命の分水嶺より、歩一歩を衰亡に向つて下せるものに
あらずや。