彼は深い編笠をかぶって、白柄の大小を横たえて、この頃流行る
伊達羽織を腰に巻いて、袴の股立ちを高く取っていた。
時々鈴懸の隣り合せに
伊達なこしらへをした街燈があつて、そこだけの葉を円く照らし、潤んだあかりを落してゐた。
が、紅い襷で、色白な娘が運んだ、煎茶と煙草盆を袖に控えて、さまで嗜むともない、その、
伊達に持った煙草入を手にした時、——
……遊山旅籠、温泉宿などで寝衣、浴衣に、扱帯、
伊達巻一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても可いが想像が出来る。
その
伊達競べに使われた可憐な役者達が、勤めを果して此処に眠って居ることが彼に解った。
彼等は
伊達に就いても効果の無いことは互にいましめ合う。
汽車中、
伊達の大木戸あたりは、真夜中のどしゃ降で、この様子では、思立った光堂の見物がどうなるだろうと、心細いまできづかわれた。
後に、
伊達正宗の最初の居城、臥牛の城閣がこの丘の上に組まれ、当時の城閣を偲ばせる本丸の地形や城郭の跡が今でも残っている。
ここはその磯節にまでも歌詞滑らかに豪勢さを謳われた、関東百三十八大名の旗頭、奥羽五十四郡をわが庭に、今ぞ栄華威勢を世に誇る仙台
伊達の青葉城下です。
しかし広い「お竹倉」をはじめ、「
伊達様」「津軽様」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。