つまり、敬語など突ッつき、言葉の合理性などということを言いだすと、言葉全体を新たにメートル法式につくりあげない限り、
合理化の極まる果はないのである。
仏教式に
合理化せられ、習合せられた新来神と言へさうだ。
だが此話は、一面神子が人間となり、教主・君主の二方面の力を、邑落の上に持つ様になつた事実の退化した上に、
合理化が行はれたものと見ることが出来よう。
此が仏教伝来の魂祭りの思想と合して、
合理化せられて出来たものが、盆の聖霊会である。
江戸の犬儒や、鍛錬主義者の
合理化を経た士道・武士道が、そつくり戦国どころか、源平頃の武家にも、其精神の内容として見ることが出来る、といふ風に思はれ勝ちである。
現在ある様式や、考へ方は、幾度幾様とも知れぬ固定や、其から救ひ出した
合理化の力を受けて来たのだ。
さうした後の邑落或は国・村においても、やはり以前の時代の生活の形が、其相応に適当な様に、
合理化せられて行つたことは、明らかであつた。
世評を塗りつぶさうとする
合理化の自己弁護以外ではない。
その意味に於て、一時やかましく云はれた「生活」の科学化とか
合理化とかにも、うつかり賛成はしなかつたのである。