「未踏地帯」と、精密な
地図にさえ白圏のままに残された個所が、まだ四、五か所はある。
東京の留守宅の半面図を描くことも、日本からヱジプトまで来た私の足跡を
地図に描くことも出来た。
江戸の
地図を見れば判るが、青山には久保町という町があった。
笊の目から※った蔬菜の雫が、まだ新しい台俎板の面に濡木の肌の
地図を浸み拡げて行く勢いも鈍って来た。
つまり、外国製
地図の誤謬をただし、一度も日本人の手で実測が行われていない、この地方の
地図を完璧なものにしようとするのだ。
ただ
地図を見てではこんな空想は浮かばないから、必要欠くべからざるという功績だけはあるが……多分そんな趣旨だったね。
「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた
地図で見たことがある。