支那では、古く三月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、
宴飲をした。
其日はちようど、祭りのごえん(後
宴か御縁か)と言うて、まだ戸を閉ぢた家の多い町に、曳き捨てられただんじりの車の上に、大きな髯籠が仰向けに据ゑられてある。
おかみさんが江戸つ子で、或る大会の時には葭町の一流の芸者などを呼んでくれて、我々は美術学校に保存してある「長崎遊
宴の図」を思ひ出して、喜んだものである。
ある時御内
宴が催されて、詞臣等をして、宮鶯囀暁光いう題を以て詩を賦せしめられた。
さかんな新築祝いの
宴が、時計屋敷で三日三晩にわたって行われたのち、百五十人の建築師たちは、村人にあいさつもせず、風のようにこの土地を去った。
又曰く、「
宴後秀吉小児を抱いて出で我国の奏楽を聴く。
彼の豪奢の絶頂は、寛正六年三月の花頂山の花見
宴であろう。
翌月の十五夜も月見の
宴などは一切遠慮で、江戸の町に芒を売る声もきこえなかった。
また、三島彌吉さんが新婚の
宴をひらいた時の室もここであつたとのこと。
先生の勉強は實に驚くべきもので、
宴會などの後でも、家に歸れば必ず其儘机に※つて、午前の一時二時迄も讀書を續けられる。