従つて当代に理解せられざるは勿論、
後代にも知己を得れば見つけものなるべし。
後代の批判にして誤らず、普遍の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底の事は、私の為すべき限りではない。
昨年以前を意味する「こそ」と言ふ語は、昨日以前を示す「きそ」から、
後代分化して来たのであつた。
さうして其註釈としては、なるべく
後代までながらへてゐた、或は今も纔かに遺つてゐる「生活の古典」を利用してゆきたい。
興台——正式には、興言台と書いたのであらう——産霊は、
後代は所謂詞霊と称せられて一般化したが、正しくはある方式即とを具へて行ふ詞章の憑霊と言ふことが出来る。
併しながら、固定せないでゐる部分は、
後代までも天子一代毎に代つて降臨せられるものと信じてゐた。
その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、
後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。
もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々
後代のものへ沢山の未完成の画を残した。
兎に角彼は
後代には勿論、当代にも滅多に理解されなかつた、(崇拝を受けたことはないとは言はない。
兎に角彼等の伝へたクリストに比べれば、
後代の伝へたクリストは、——殊に彼をデカダンとした或ロシア人のクリストは徒らに彼を傷けるだけである。