勇猛にして無欲清浄にして器量大、廉直にして隠すところなく、明敏にして能く察し、慈恵にして下を育す、好みて
忠諫を容るる等、その善き所なり」と云った。
申※は最初の大言に似ず、日本軍連勝の報に恐れをなして、
忠州を出動して南下し、鳥嶺の嶮を踰える時に行方不明になった。
彼が「板倉家の大久保彦左」などと呼ばれていたのも、完くこの
忠諫を進める所から来た渾名である。
が、損をしてまでも、その主張なり使命なりに
忠ならんとする雑誌は少いでせう。
唐の楊貴妃の族兄楊國
忠が、貴妃と共に馬嵬で殺害された時も、之と同樣に、彼の肉は軍民の餌食となつた。
ところが不幸な事には、私どもは詩に對しても
忠實な讀者であり、同時に多くの詩人を、友に持つてゐる。
しかし先生の訓戒には
忠だつたと云ひ切る自信を持たない。
この精神家というのは、軍隊での一種の通り言葉で、
忠君とか愛国とかのいわゆる軍人精神のおかたまりを指すのであった。