尤も脱藩の浪士などの間には、不平家も少しはあつたが、大抵な人は所謂
恒の産があつたから、そんなに騒がなくつてもよかつたのだ。
なぜなら、ほんたうの伝統といふものは
恒に年老いないものと信じるからである。
それから顔を上げ下しをする度に、
恒は何処にか蔵して置くらしい、がツくり窪んだ胸を、伸し且つ竦めるのであつた。
この
恒信風を利用して、亞剌比亞海から印度に來る船が眞先きに寄航する土地は、此の國であります。
然れども記憶せよ、宇宙の精神と、人間の精神とは、
恒に進歩にして
恒に退歩なる中にありて、相接近しつゝあるにあらずや。
人間の事
恒に「己」を繞りて成れり、己を去つて人間の活動なし、然るを熱意は往々にして「己」を離れ、身を軽んじて、「他」の為に犠牲とならしむる事あり。
地方には今北洪川、西有穆山、由利滴水、橋本峩山、新井日薩、七里
恒順、などという人々がおった。