二十五年前には外山博士が大
批評家であって、博士の漢字破りの大演説が樗牛のニーチェ論よりは全国に鳴響いた。
わたしはある
批評家の云ったように、わたしの「作家的完成を棒にふるほど懐疑的」である。
すると友人の
批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒むそうな姿を一瞥すると、急に身ぶるいを一つして、
当時、発表する意志も、発表する機関もなかった自分は、作家と読者と
批評家とを一身に兼ねて、それで格別不満にも思わなかった。
思ふに虎になり損なつた彼は小説家になり損なつた
批評家のやうに、義理にも面白いとは云はれたものではない。
(尤もそれが全部でなくとも或著しい部分を表してゐる時、
批評家にさう云ふイズムの貼札をつけられたのを許容する場合はありませう。
若し又それは出来ないと言ふならば、——僕は当然の権利としてかう
批評家たちに要求しなければならぬ。
それゆえ始めの間の論駁には多くの私の言説の不備な点を指摘する
批評家が多いようだったが、このごろあれを機縁にして自己の見地を発表する論者が多くなってきた。
僕は
批評家の御注文に應ずべく神樣が僕及び人類を造つて呉れなかつたことを感謝する。