子供のうちから歌や文章を好んで居た私を、やはり
文学者として立つつもりで高等学校に居た兄が、新詩社の與謝野晶子夫人の処へつれて行つて呉れました。
若い元気の好い
文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。
俺が文科を選んだのは、
文学者崇拝という他愛もない少年時代の感情に支配されていたに過ぎなかった。
犬を好まない
文学者にゲエテとストリントベルグとを数えることを愉快に思っている一人だった。
しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆
文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。
それは或夜、大変混雑な
文学者会が、某洋食店楼上で催され麻川氏もその一端に居た。
即ち彼は才能ある人ではあるが、
文学者としては恐ろしく無学であると。
壺や皿や古画等を愛玩して時間が余れば、昔の
文学者や画家の評論も試みたいし、盛んに他の人と論戦もやつて見たいと思つてゐる。