商売の片手間に、悠々と、人間喜劇を書きあげてノッソリ登場してくれるような
新人が、日本の文壇を大人の文壇に、だんだん変化させてくれるであろう。
当時の文壇は大家中堅クツワをならべ、世は不況のドン底時代で、雑誌の数が少く、原稿料を払ふ雑誌などいくつもないから、
新人のでる余地がない。
このときの文藝春秋は
新人号といふので、井伏鱒二その他数名の執筆がすでに定まつてゐたのを、急に私が一枚加はつた。
なぜなら、
新人発掘が商売の編輯者諸君の大部分が知らなかつたからである。
一昔前は、金語楼が落語界の
新人であったが、彼の泥臭さに比べれば、歌笑は洗錬されてもいるし、より時代感覚に密着している。
落語の
新人に一流の芸術をのぞむのはムリであるし、又、落語の古典的な伝承者に一流の芸術をのぞむのはなおさらムリだ。
私達今の作家の多くが所謂ブルヂヨア的である故にこれから新しい文学を樹立せんとする
新人は大いにプロレタリア文学の処女地を開拓すべきであらうと思ふ。
次の一節は、マルチャノフといふ
新人の長編小説『農民』について言つてゐる言葉である。
文壇の
新人旧人を分つ、殆雅号の有無を以てすれば足るが如し。