余輩が明治三十八年五月を以て、所謂法隆寺再建論を学界に発表してから、早くも三十年の
星霜が流れた。
数歳の
星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々人の住替りしが、一月居しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。
ルードヰヒ二世の歿したのは、西暦一八八六年の八月十三日午後七時頃であるから、西暦一九二四年の今までは既に三十八年の
星霜を閲してゐる。
しかし「伝吉物語」によれば、服部平四郎の名を知るまでに「三
星霜を閲し」たらしい。
石山本願寺時代、信長の雄略を以てしても本願寺門徒を攻め倒すことが出来ず、十一箇年の
星霜を費して、やっと媾和している。
気盈ち骨剛きものすら多くは「時」の潮流に巻かれて、五十年の
星霜急箭の飛ぶが如くに過ぐ。
江口君論ずらく、「
星霜を閲すること僅に一歳、プロレタリアの論客は容易に論壇を占領せり」と。
僕はこのアルントを郁文堂に売り金六円にかへたるを記憶す、時来
星霜を閲すること十余、僕のアルントを知らざることは少しも当時に異ることなし。