プルウストの尨大な仕事を「作品」で扱ひはじめたのは、ややプルウストが
時流に乗りだして後のやうに記憶する。
ところが、今まで日本の文壇では、
時流便乗家が、通俗作家としてゞなく、純粋な文学として通用してゐた。
果して、彼は、
時流を追はず、技を弄ばず、着実に、堂々と、本格的修業に身を委ねてゐるらしく私にも見え、彼の友人の多くもそれを認めるやうになりました。
私は、もう十年以来、演劇に関する意見を発表して来たが、それらは常に
時流の眼から逸し去られてゐたやうである。
この事実は、彼の芸術的霊感が、徒らに理論と
時流に左右されず、常に独自の面目を発揮してゐる証拠である。