演出家や俳優、脚本家たちが、どうしてそこに気がつかないのか、私には不思議だ。
われわれは、作者自ら舞台指揮者たることを正当と認め、事情によつては、臨時に、或る脚本の舞台指揮を或る「
演出家」に依頼するつもりである。
また、演出の方法、即ち、
演出家の独りよがり、気まぐれな試み、無意味な野心などは、演劇の「広さ」をわざわざ「狭く」するものである。
殊に舞台の方では西洋の近代劇運動につづいて起つたさまざまな演出上の新機軸が、日本の若い
演出家の間に試みられ、所謂「
演出家万能時代」といふものを作つた。
が、
演出家その他の協力指導が加はつて、ほぼ「完全な理解」に到達したら、その次は、その「人物」の立体的構成に必要な想像と観察を働かさなくてはならぬ。
ある「台詞」が、「正確」に云はれるといふことは、一体どの程度を指すのか、この程度が第一、
演出家にも俳優にもわかつてゐなかつた。
演出家によつては、興味の重心をそこへおき、舞台に若干の誇張的色彩を与へるかもしれぬが、僕は寧ろ、作者の意識せざる半面を故ら露出させる方法に賛成しないのである。
作者も脚本も俳優も
演出家も、それらを知ると知らざるとに関係なく、舞台は大体想像がつく。
したがつて作家としての私は投票場のシーンを描写する能力がなく
演出家としての私は投票場のシーンを演出する能力がない。