加州金沢市古寺町に両隣無き一宇の大廈は、松山某が、英、
漢、数学の塾舎となれり。
胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い
漢である。
で、その尻上がりの「ですか」を饒舌って、時々じろじろと下目に見越すのが、田舎
漢だと侮るなと言う態度の、それが明かに窓から見透く。
その証拠には、これだけの軍勢で、必ず
漢の軍を三度破って見せる』と云ったそうです。
そうして「沈黒江明妃青塚恨、耐幽夢孤雁
漢宮秋」とか何とか、題目正名を唱う頃になると、屋台の前へ出してある盆の中に、いつの間にか、銅銭の山が出来る。
恰も南下
漢人を征せる、拓跋魏の健児等が、其北狄の心情を捨てて、悠々たる中原の春光に酔へるが如く、彼等も亦富の快楽に沈酔したり。
故に
漢時代には、胡兵五而當
漢兵一とさへ稱せられた。
あらず、あらず、ただ見るいつもいつも、物いわぬ、笑わざる、歌わざる
漢子の、農夫とも漁人とも見分けがたきが淋しげに櫓あやつるのみ。
或は支那
漢代の瓦器や日本の祝部土器等を例に引用しないとも限らないが、先づ「釉のある燒物」を主題にしてゐることをはつきりしておきたい。