しかし、一般に、
発声映画の魅力の大きな要素の一つとして、ダイアローグを計算に入れることは今日常識となつてゐる筈である。
映画になつたのは無論ずつと後のことだが、最近デュヴィヴィエの監督で
発声映画になり、この秋日本でも封切される筈だ。
発声映画に熟練な俳優を供給したのは、長い伝統を誇る西洋演劇であつた。
オルガ姫は、録音テープを捲きとって、
発声装置にかけているところであった。
発声の自由と声量の豊富、その上に、他の肉体的条件に適合した「声の質」を必要とする。
が、これを以て、舞台的経験が
発声映画にとつて無用であると早合点してはならぬ。
幸ひなことに、西洋の
発声映画が、その映画的技術と共に、舞台的訓練を経た俳優の演技を、さながらにわれわれに示してくれる時代が参りました。
演劇をどう定義づけるかにもよるが、私の考へる演劇の本質といふものからみれば、現在の
発声映画は、その魅力の一半を演劇的なるものに負つてゐるやうに思ふ。
これを要するに、吾々の日常生活に於ける所作や
発声は、その目的が何であるに拘らず、真剣に鍛えられて来るに従って、「能」のソレに近づいて来る。