倭名鈔は、醍醐天皇の第四
皇女勤子内親王の仰せによって、源順が奉ったといわれている。
皇子・
皇女の誕生が、それであつて、此みあれがあつたのち、更にみあれがあることが、即、帝位に即かれる意味に外ならないのである。
皇女である方が、皇后・中宮になられた場合、女源氏と称する訣もこれで訣るのだ。
万葉集の巻の三には大津皇子が死を賜わって磐余の池にて自害されたとき、妃山辺の
皇女が流涕悲泣して直ちに跡を追い、入水して殉死された有名な事蹟がのっている。
即ち前説に拠れば舒明の
皇女、後説に拠れば舒明の皇后ということになる。