常識的感動によつて
芸術品の「効果」を期待するのは、私に云はせれば
芸術の邪道である。
凡そ一つの
芸術品が、
芸術としての存在を主張し得るためには、創造者の霊感が、直接、そして純粋に、美の表現に到達してゐなければならない。
然し、いくら一般公衆の為めにものされた
芸術品でも、彼らの或るものには興味があり、或るものには興味が無い——さういふものがある。
そうしてあらゆる優れた
芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を受けた。
其れが
芸術品として成上った時に於て、果して若やかな感じ即ち愉悦の情を見る人に与うるかゞ作品としての価値如何である。
芸術品の価値も小切手や紙幣に換算出来ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである。
しかしわたしたちの重んずるのはただ科学そのものであり、あるいは
芸術そのものである。
先生は、由来、
芸術——殊に演劇とは、風馬牛の間柄である。