現在の綜合雑誌を全部通読する人は小数で、殆んど
虚栄的な存在ではないかと疑られる。
僕の平田先生の翻訳を読んだのは「ヴアニテイ・フエエア」(
虚栄の市)と「エゴイスト」(我意の人)とだけである。
僕自身を冷静に見ることは、——いや、僕は他見を許さぬ日記をつけてゐる時さへ、必ず第三者を予想した
虚栄心を抱かずにはゐられぬものである。
客の手前、客のあるのを自慢するとでも云つたらよささうな、小供らしい
虚栄心を持つてゐるからである。
今、お辻の寝棺が悠々と泰松寺の山門——山城屋宗右衛門の老来の
虚栄心が、ひそかに一郷の聳目を期待して彼の富の過剰を形の上に持ち来らしめた——をくぐつて行つた。
なぜなら、人生のための芸術でなくて、事実虚名のためであり、
虚栄のためであるからです。
悲しき事の、さても世には多きものかな、われは今読者と共に、しばらく空想と
虚栄の幻影を離れて、まことにありし一悲劇を語るを聞かむ。
彼等は聖書を愛読し、宗教思想に富み、日常の業務に満足して、敢て
虚栄の影を追はず、或時はむしろ迷信に陥り易く、宗教に伴へる在来の悪弊も亦少なからず。
悲しき事の、さても世には多きものかな、われは今読者と共に、しばらく空想と
虚栄の幻影を離れて、まことにありし一悲劇を語るを聞かむ。