かゝる誤りは萬朝報に最も少かつたのだが、先頃も外ならぬ
言論欄に辻待の車夫一切を朧朧と称するなど、大分耳目に遠いのが現はれて来た。
言論の自由などと称しても人間の頭の方が限定されてゐるのであるから、俄に新鮮な
言論が現れてくる筈もなく、之を日本文化の低さと見るのも当らない。
文学の戦犯などゝいふことからして妙なことで、尤も中には暴力に訴へて
言論に圧迫を加へた右翼主義者があつたが、この連中は論外だ。
戦争中、影山某、三浦某と云つて、根は暴力団の親分だが、自分で小説を書き始めて、作家の
言論に暴力を以て圧迫を加へた。
戦争という
言論ダンアツのせいで文章がヘタになったというのはウソの骨頂で、
言論自由、もっとも文才華やかなるべき当節に於て、右の二つ、変るところなし。
しかも、これは学校教育ばかりでなく、その延長でもあらうか、社会各方面の指導的
言論のうちにこれをみるのである。
しかし斯う云ひ去り書き終つたならば、非常に簡単な恋愛解釈をもつて尽きることになりますが、以上は根本の概括を一粒子に搾縮した
言論の具象に過ぎません。
先生が過去幾十年、
言論文章で奮闘なされたよりも、今日病んで黙つて居なさる方が、何程大事業か知れないと、僕は信じて居ます』