そこで神功皇后様には御自ら新羅御
討伐の壮挙を御決行あそばす御決心をあそばされ、群臣に、
喜んで死ぬとは異様であるが、
討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。
丁度私の着いた翌日、やゝ大規模な
討伐が行はれ、小川隊長の計らひで、私も、本部の一員に加はつた。
袴垂れの徒党は、
討伐の軍勢を蹴散らかすほど強力であったばかりでなく、狼藉の手口は残忍を極め、微塵も雅風なく、また感傷のあともなかった。
だから晴賢
討伐の勅命まで受けているが、それも政略的な意味で、必ずしも主君の仇に報ゆるという素志に、燃えていたわけではないのである。
この時討手に向つた官軍は、賊軍を
討伐するよりも、彼等の糧乏しきに乘じ、無辜の良民を捕へ、之を賊軍に賣り付けて金儲をしたといふ。