私は中原が
訳すまで、ラムボオに『学校時代の詩』といふもののあることを知らなかつた。
訳してみると他愛のない思ひつきや、訳さうにも
訳すわけに行かぬ言葉の音の洒落やがあつて、さういふ時には少々うんざりする。
元来西洋のエロカンスといふ言葉を雄弁と
訳すのは正しいかどうか疑問である。
僕は『日々の麺麭』と『別れも愉し』の二篇を
訳すことで満足した。
ミュツセとアナトオル・フランスとを、日本語で読めるやうに
訳すのはむづかしい。
語義の穿鑿をやめて、読みながら
訳すといふ方法を取つてみた。
最初
訳す積でゐた「村で一人の盗賊」は、代表作の一つに並べられてゐるものだが、今度読み返してみて、あんまり感心しなかつた。
高踏派の壮麗体を
訳すに当りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉体を翻するに多少の変格を敢てしたるは、その各の原調に適合せしめむが為なり。