父が母と違って絶壁のように保守的で頑固なために、幾度母に責め
諫められながらもついにあの姉を小学校にさえ出さなかった。
庚寅の年、江西の節度使の徐知
諫という人が銭百万をもって廬山使者の廟を修繕することになりました。
それを、祖母やその頃二十五、六にもなっていた私の父が、涙を流して
諫めても、どうしても止めなかったそうです。
すると元就は家来達に対して、「お前達の
諫を聞かないで厳島に城を築いて見たが、よく考えてみると、ひどい失策をしたもんだ。
勇猛にして無欲清浄にして器量大、廉直にして隠すところなく、明敏にして能く察し、慈恵にして下を育す、好みて忠
諫を容るる等、その善き所なり」と云った。
信長も許したが猶も勝家等の
諫を聴かずして叛こうとしたので、ついに信長、謀をもって之を暗殺した。
彼が「板倉家の大久保彦左」などと呼ばれていたのも、完くこの忠
諫を進める所から来た渾名である。
そこでうるがんは姫君の為に、言を悪魔に藉りて、信長の暴を
諫めたのであらうと云ふのである。
韓退之が唐の憲宗の佛骨を迎ふるを
諫めて罪を得、西暦八百十九年に潮州に流された。
「圭一郎もそないな罰當りを言や今に掘立小屋に住ふやうにならうぞ」と父は殆ど泣いて彼の不心得を
諫め窘めた。