源平盛衰記に伊勢三郎義盛を批評して、「究竟の山賊・海賊・古盗人の
謀賢き男なり」と云ってあるのも、必ずしも彼が盗賊だという訳ではあるまい。
小西の旧臣、天草甚兵衛を中心に、浪人どもを
謀主とし、甚兵衛の子、四郎を天人に祭りあげて事を起さうといふのである。
二人の女は、愛護が父蔵人に此由を告げはすまいかといふ懸念から、逆に若を陥れる
謀を用ゐる事になる。
とはいえ事に臨んで恐れ、
謀を好んで為すは勇士の為すところと、既に孔夫子も申しておる。
元就が厳島へ築城を初めると、元就の隠
謀を知らない家臣はみんな反対した。
信長も許したが猶も勝家等の諫を聴かずして叛こうとしたので、ついに信長、
謀をもって之を暗殺した。
卑しくも間
謀を務めている者、しかもシムソンのように一筋縄で行かない強か者が、盗んだ書類を身の廻りに置いているでしょうか。
班超は依然三十六人の小勢にて、※善の西なる于※(今の和※)王を屈服せしめ、その翌年(西暦七四)には、
謀を設けて、頑強な疏勒(今の喀什※爾)王を擒にして居る。