その背後には、権藤成
郷氏が直木に贈った七言絶句の詩がかかっていた。
伊豆や相模の歓楽
郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分ではないから、房総海岸を最初は撰んだが、海岸はどうも騒雑の気味があるので晩成先生の心に染まなかった。
蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯して、天正十八年、陸奥出羽の鎮護の大任を負わされた蒲生氏
郷を中心とする。
二カ月ほど土工をして旅費をつくり、
郷家に転がり込む。
然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐たらんことを求めて得ず、憤を懐いて
郷に帰り、遂に禍を首むるのみ、後に興世を得て始めて僣称す。
一家を擧げて、甚だしきは一村一
郷を擧げて、行旅を剽掠することを生業とする者が尠くない。