私が以前京都で懇意にしてゐた滝正雄君は、(後に近衛内閣の時、法制局
長官を経て企画院総裁となり、退官後、貴族院議員に勅選された人。
大将だの大臣だの
長官などゝいふのはみんなムジナかナマズか何かであり、郡山はボルネオの国民学校の優等生で全く裏も表もないそれだけの正真正銘の人間だつたのである。
其は、采女は平安朝になると、前述のやうに、低い位のものとなつたが、其前には、郡領——地方の郡の
長官——の女であつた。
※の王審知はかつて泉州の刺史(州の
長官)でありましたが、州の北にある桃林という村に、唐末の光啓年中、一種の不思議が起りました。
然しながら、その数量において、上
長官は兵士軍属の何十万分の一にすぎないのである。
尚方とは少府の管下の、宮中の御用品を制作することを掌どる官省で、令はその
長官である。
警視
長官は市会議員に対する儀礼としてちょっと熟考の形を取ったが肚は決っていた。
治まる聖代のありがたさに、これぞというしくじりもせず、長わずらいにもかからず、
長官にも下僚にも憎まれもいやがられもせず勤め上げて来たのだ。
わが水兵はいかに酔っていても
長官に対する敬礼は忘れない。