家並を外れると、なるほど山の辺にかかって北上し、右手山際に、景行、崇神両帝の
陵をすぎ、石上神宮があって、やがて現代教祖のお筆先賑う丹波市となるのである。
我当は大阪の低い知識の導くまゝに、大和桜井から一里も奥の城島村まで行つて、「忍阪内ノ
陵」——舒明天皇
陵——に参つて家兄の平癒を祈つてゐる。
長江に臨んだ古金
陵の地に、王生と云う青年があった。
この少納言は、伽
陵と云う名高い笙と、大食調入食調の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀代の名人だったのでございます。
僕——理学士大隅圭造は、花
陵島にある地震観測所へ、いま赴任の途にあるのだ。
少名彦命の神
陵も、この傍系によつて確認されなければならない。
で、この辺一体の地名は、慥か、向が岡、又、弥生が岡、一名向
陵、乃至は武
陵原頭なんかと、洒落れて云ふ人もある。
が、李太白や杜少
陵の訳詩を見ても、訳詩とはどうも受け取れない。
こは私が去る明治四十年十月十日、始皇の驪山の
陵を訪うた當時の紀行の一節である。
博物志、太史令、茂
陵、顯武里、大夫、司馬〔遷〕——同治九年に金
陵書局で刊行した『史記集解索隱正義合刻本』には、司馬遷年二十八と明記してある——年二十八。