実人生に於て禁慾し苛酷な試煉を拒絶したフロオベエルは、文学の中に於ては、もみつぶされた
青春の色情を一生もてあましてゐたのであらう。
この戦争期の青年達は
青春の空白時代だといふけれども、なべて
青春は空白なものだと私は思ふ。
ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、
青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。
男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齡の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つばかりに紅血の油を盛つた
青春の火盞ではないか。
私の
青春の悩みと憧憬と宗教的情操とがいっぱいにあの中に盛られている。
自分如きも、
青春期、いのちの目ざめのときの発足は「善い人間」になりたいということであった。
夢見ることをやめたとき、その
青春は終わるのである。
われは今、
青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
しかし、中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の
青春はこの町から吉田へ移つてしまつた。