一見唐突で、気まぐれとさへ思はれる人物の対話や行為のなかに、劇詩の要素である
韻律の知的でかつ感覚的な操作を、心にくいほどの落ちつきと計画をもつて行つてゐる。
傑れた戯曲は、人物が喋舌る喋舌らないに拘はらず、絶えず作者が人物の心の動きを追ひながら、そこから生命の
韻律的な響きを捉へることに成功してゐなければならない。
対話は極めてぎごちない文語体で、ニュアンスと
韻律に乏しく、然しながら、理路整然として淀む処がない。
しかし、映画の本質と結びついた、或は、映画の本質を本質とするやうな、新しい
韻律文学の一形式が生れるであらうことは予想できる。
即ち、現実のイメエジは、彼の心眼に、ある姿態を映すよりも寧ろ、ある「
韻律」を響かせて流れすぎるのである。
結論を急げば、戯曲の本質的「美」は、人生の真理を物語る活きた魂の最も諧調に満ちた声と姿、最も
韻律的な動き(響きと云つてもいゝ)の中に在るとは云へないか。
あらゆる生命の
韻律と姿態が、時には離れ離れに、時には入り乱れ、また時には一致融合して自由な表現に達するところから詩が生じるのである。
僕が、こゝで「戯曲的雰囲気」と云ふのは、実生活が「めいめいの表現」によつて形造られ、彩られ、そこから、「生命の
韻律的な響き」が伝へられることを指すのである。
それはつまり、思想が常に感情によつて裏づけられ、その感情が常に一つの心理的
韻律となつて流動することである。
いままではなんの注意もひいたことのないような音楽の
韻律の意味を考えて頭が乱される人でもない。