フランス大詩人ステファン・マラルメ師の「クウ・ド・デ」という詩集を一見したときに、
魂魄空中に飛びちり、ほとんど気息を失うところであった。
かの六条の御息所の恐怖などは、啻に道徳上の責任を思つた為のみではなかつたので、寧、我
魂魄に対する二元的の感情であつたかと思ふのである。
古の小栗の塚と言ふよりも、古の塚の他人の骸を仮りて、
魂魄を入れた話を合理化したものと見てもよい。
それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし烏賊られて絶命し、
魂魄なおもこの地球に停って大蜘蛛と化したのであるか。
もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の
魂魄は必ずここへ登つて来る、と嘆いたものだ。
そうして、彼の
魂魄がその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。
余曰く、この花の面白からずと思はるゝ所ありや、われはこの花に対して
魂魄既に花心にありと言ひけるに、驚いて再び曰ふ、さてもさても日本は風趣に富める国かな。
累々たる墳墓の地、苔滑らかに草深し、もゝちの人の
魂魄無明の夢に入るところ。
かれ等の謂ふ『精神』といふのは、極めて抽象的な、肉體からふらふらと拔出でて佛壇あたりを迷つてゐる
魂魄みたやうなもので、僕らには何の役にも立たぬ筈である。