俳優の生態を知ることは、舞台の
イメージを豊富にする手っとり早い方法である。
しかし、一番大事な「劇的な時間」の流れを、瞬間々々の
イメージが背負っている。
私の趣味からいへば、もつと当り前な日本語と日本人らしい動作とで、もつと
イメージのはつきりした人間を、新しく深く捉へ、多面的に描いたものの方を好む。
そこで、はじめて、俳優が演じ、観衆を前にした舞台の
イメージが、私の感興を新しく刺激し、約四十枚ほど書き込みをした。
私たちは、先づ、その
イメージが描けるやうにならねばならず、また、なりたいものである。
一音を誤れば、音楽の演奏は完全でない如く、一語を聞き漏らすことによつて、舞台の
イメージは一つの空虚を残すのである。
相当作家的習熟を感ぜしめる点に於て、「不良」と共に注目すべき作品なるも、対話が心理的に過ぎ、ラヂオ的
イメージ稀薄なり。
「
イメージの猟人」たる原作者は或る意味に於て、キヤメラの魂に通ずるものがあるかも知れぬが、悲しい哉、暗示と省略の二点で、映画は文学に一歩を譲らねばならぬ。
なぜなら「見た芝居」が「読んだ芝居」の
イメージをぶち毀さないことは甚だ稀れである。
それは極端な例であるとしても、これに似た喰ひ違ひは一語一語、一句一句の
イメージの中に存在して、総体としての印象、効果に甚だしい誤差を作つてはゐないか。