ストリンドベルヒも同断であり、
モリエールの喜劇の面白さによつて
モリエールを咎める史家は先づないだらう。
こんなバカらしい茶番は、
モリエールでも思いつかなかった。
モリエールの如き大作家ですら、その作品の多くにいくらかの媚態と有閑性をのぞかせてゐるではないか。
例へば、イプセンならイプセン、
モリエールなら
モリエールを、日本人の誰かが読んだとします。
古くは『代言人パトラン』下つて、シエイクスピイヤ、
モリエールなどの作品中、笑劇と云へば、問題の外にされてゐた時代があつた。
「レ・ミゼラブル」はユゴオの通俗的半面のみを誇張した愚作であり、「タルチユフ」は
モリエールを履き違へ、オート・コメデイイの精神を解しない醜悪な写真である。
モリエール、マリヴォオを先輩と仰ぐ仏蘭西劇作家である。
シェイクスピイヤ、
モリエール、ゲエテ、ユゴオ、みな然りである。