が、後に大和に入つて民族祖先の
主流になつた邑落は固より、其外にも、同じ条件を具へた村々があり、後々次第に、此形式を模して行つた処のある事も、疑ふ事は出来ない。
現代日本文学の著しい特色は地方出身の作家の地方的性格で書かれた作品が
主流をなしてゐることではないかと。
「新劇」の名のかくの如き曖昧模糊たる用法の由来するところは、「歌舞伎或は新派」が劇界の
主流なる如き観を示すことと一脈相通じてゐるのである。
それよりも、一国の一時代が代表する演劇の
主流が、何故に、その時代の生活と縁の遠い古典劇——しかも、全く未来のない舞台——の反覆でなければならないのか。
然るに、今日まで、此の種の劇が劇壇の
主流となり得ない事実の前に、凡ゆる苦悶が続けられてゐる。
自ら、「
主流」に立たうとする心事の、醜き表はれである。
歌舞伎劇が、今日、我が国劇の
主流を形造つてゐることは、如何なる点から見ても不合理であり、不自然である。
日本現代劇の
主流は、何といつてもまだ写実から脱け出してゐない。