よし又理想的な
公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。
そして、仏蘭西に於ける真の演劇の愛好家——これに相当する日本の
公衆は、已むを得ず、活動写真館に走るのである。
現代日本の
公衆は、自己の生活の中に、「演劇美」を構成する要素があるかないかをまだ知らずにゐる状態である。
公衆はわたくしがその中に籠めた大なる感動の叫びを聞いたのだ。
此の場合、上演料を支払はない脚本(即ち
公衆の所有に帰したもの)があれば、その分の収入は劇場の収入になる。
公衆は彼等より侮辱と罵詈の権利を買ひ受けるのである。
それならば、
公衆は演劇鑑賞の標準を何によつて定めるかと云へば、たゞ個人的趣味によつてと云ふより仕方がありません。
芸術家は、一般
公衆と共に、自然と人生とを観ればいい。
然るに、劇作家のみは何故に、客観的態度を以て人生の「劇的葛藤」に注目し、劇作家ならずとも感じ得る「興味」を捉へて、これを
公衆に示す義務があるのだらう。