原子バクダンで百万人一瞬にたゝきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。
終戦以来、たつた一度アメリカのニュース映画を見に行つたほかは(
原子バクダン)映画も劇もレビューも野球も相撲も見たことがない。
原子エネルギーとても、同じことで、その使用の限界が発見、確定せられて、はじめて文化の一員となりうるにすぎない。
ただ、そこには
原子バクダンが人間に与える実害のような地獄絵図はない。
新しく見聞する必要があるのは
原子バクダンの跡だけだ。
これらの大工事や自力運行のため、
原子エネルギーの活用は幾何級数的に増大される。
服装は、頭に
原子防弾のヘルメットを、ルビー玉の首飾、そしてカナダ栗鼠の長いオーバー、足に防弾靴を長くはいている。
その方法は、水銀の
原子の中核を、α粒子という手榴弾で叩き壊すと、その
原子核の一部が欠けて、俄然金に成る。
従つて、その考察の多くは、濃
原子時代色と同時に、ある種の偏見に対する不器用な抗議を含み、それは動もすれば性急でしかも迂遠な姿勢とみえることもある。
おそらくそのとき何が美しいと云ったってサクレツする
原子バクダンぐらい素敵な美はないだろう。