然し土壇場にまで突き込まれて、
喜劇ならぬかわった意慾の生活を弄する点では、全く同じいだろう。
何処か寂然として、瓢逸な街路便所や古塀の壁面にいつ誰が貼って行ったともしれないフラテリニ兄弟の
喜劇座のビラなどが、少し捲れたビラじりを風に動かしていたりする。
この界隈に在っては総てのことが
喜劇の厳粛性をもって真面目に受け取られた。
薄田泣菫氏を古典主義者としたのは勿論詩壇の
喜劇である。
それがある時は
喜劇的であり、ある時は悲劇的である。
お前の顔は悲劇の面のやうで、同時に又
喜劇の面のやうだ。
みずから得たとして他を笑った
喜劇も、己れの非を見いでて人の危きに泣く悲劇も、思えば世のあらゆる顕われは、人がこの一事を考えつめた結果にすぎまい。