懲罰日誌そのものゝなかには
囚人の悲慘がユーモアに包まれて寫されてゐる。
彼は、一人のブウルジユワを、自由に酔ふ
囚人に仕上げる。
そして毒瓦斯の試験台に採用された
囚人のように、意気甚だ銷沈しているのであるか。
シベリヤの自然と生活は、殊に
囚人の生活の惨憺たるものであることは、ドストエフスキイの作を読んだものはすべて知るところであろう。
囚人がそんな時やみにまぎれ牢脱けをして水を渡る芝居などが作られてゐる。
その推移の間に、偶※「主」が廊下傳ひに歩いてこられて、この
囚人を熟視し給ひ、さて、「此の男を二度と監禁してはならぬ。
この畜生同様の
囚人の間にあって、僕自身は聖人か仙人かのようであったことは、前にちょっと言った。
この語を聞きつけて、『世人は
囚人を見れば、直ちに泥棒なりと思ふこそ情けなけれ』とて、同情に堪へざるさま也。