つまり中世乱離の頃は戦争と博奕といふものが密接な関係を有して居たのが、末代
太平の世には山の祭と云ふものと博奕とが大きな関係を持つやうになつた。
是れ
太平の祥であると云って何も遊民を喜ぶのではない。
惟うに、
太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であろう。
本因坊あつて偃武の世に出づるに及び、蔚然一家を為し、
太平三百年間、雋異の才、相継で起り、今則ち禹域を圧すといふ。
いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、
太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。
太平の夢を破られた江戸市中には、武芸をこころざす者が俄かに殖えた。
唐の玄宗、開元は三十年の
太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝにせり。
——が、かう云ふ
太平な風物の中にゐたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だらうと思ふと、決してさうではない。