面会人は臼井藤吾という
姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事目賀野俊道氏であった。
有名の和蘭医師高野長英が
姓名を変じて青山百人町(現今の南町六丁目)にひそみ、捕吏にかこまれて自殺したのは、嘉永三年十月の晦日である。
「そこに帳面と硯があるので、原籍と
姓名を書きとめておいて、向うの長屋で休むといい」
所持品により、本籍並びに番匠幹枝という
姓名だけは知りたれども、同人は精神激動のためか、殆んど言語を洩らさず、凡てが憂欝狂の徴候を示せり。
自分の
姓名さえも満足に書くことのできないYが、いつの間にか、むずかしい理屈を、複雑な言葉で自由に話すようになったのには、誰も彼も感心しました。
憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の
姓名を呼んだ。
これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと
姓名を明にしたいのであるが、生憎旧記には、それが伝はつてゐない。
この前後に
姓名、年齢、原籍、罪名等について、それはそれは繁雑きわまる取調べがあった。