家名も何も構わず、いまそこも閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎮
守の方へは近かったのです。
四月三十日の未の刻、彼等の軍勢を打ち破った浅野但馬
守長晟は大御所徳川家康に戦いの勝利を報じた上、直之の首を献上した。
その仕合には、越中
守綱利自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望した。
前田家は、幕府の制度によると、五世、加賀
守綱紀以来、大廊下詰で、席次は、世々尾紀水三家の次を占めている。
その後、誰か一人が合図をすると、皆は看
守に気取られないように、——顔は看
守の方へ向けたまゝ、身体だけをズッて寄って行くことになった。
秀林院様(細川越中
守忠興の夫人、秀林院殿華屋宗玉大姉はその法諡なり)のお果てなされ候次第のこと。
暖簾の色、車の行きかひ、人形芝居の遠い三味線の音——すべてがうす明い、もの静な冬の昼を、橋の擬宝珠に置く町の埃も、動かさない位、ひつそりと
守つてゐる……
——大兵肥満で、容貌の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖の懸
守と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木の三尺をしめてゐたと云ふ男である。
元治元年十一月二十六日、京都
守護の任に当つてゐた、加州家の同勢は、折からの長州征伐に加はる為、国家老の長大隅
守を大将にして、大阪の安治川口から、船を出した。
家名も何も構はず、いま其家も閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎭
守の方へは近かつたのです。