実質あるものは否定の要なく、又、伝統に限らず、全て、
実質を失いながら虚妄の権威を保つものは、反省され、否定される必要があるだけだ。
ところが、日本式の御婦人流儀のやり方であると、
実質はどうでもいい、なんでもかでも、亭主を偉くし、偉く見せねばならぬ。
実質がおのずから形式を決定してくるもの、何事によらず、
実質が心棒、根幹というものである。
生活の
実質的なものが、おのずから言葉を選び育てるのであるから、問題はその
実質の方である。
実質の伴わない架空な威厳、形式的な威厳によっては人は心服するはずはなく、あべこべに戯画となり、子供の遊び道具となる。
彼は短気であつたが、あべこべに腹が立たなくなり、馬鹿にされ、踏みつけられ、裏切られ、それでも平気で、つまり
実質的な自信があつた。
実質的な便利な欲求を下品と見る考へは随所に様々な形でひそんでゐるのである。
新撰組隊長、近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その
実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。
「もとは植木屋といつたら、隠居の遊び相手に煙草をふかしてりやよかつたんですが、どうして此頃はお客さんの要求からして
実質本位です」。
彼等は本能的な
実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。