自分で海賊大
将軍と誇称して威張ってみた時代もあった。
いちはやく秀吉が光秀を退治して天下は秀吉のものとなつたが、同時に世人は家康を目して天下の副
将軍といふやうになつた。
親房の子顕家、鎮守府
将軍となりて陸奥に至りし時、親朝は評定衆、兼引付頭人となりて国政に参与したり。
斉正は、たかが七面鳥のことで、
将軍と争うほどのこともあるまい、と急に考え直した。
「コラコラ、今から居眠りをするようでは駄目じゃッ」と、髯
将軍の銅鑼声はまず車中の荒肝を拉ぐ。
それのみならず更に梅沢君をよろこばせたのは、その霊あるがまが金華
将軍と呼ばれることであった。
事実、
将軍としての彼は、無能であったらしく、治蹟の見る可きものなく、寵嬖政治に堕して居る。
それは
将軍秀忠の江戸から上洛するのを待った後、大阪の城をせめるためだった。
みんなはそれから後田村麻呂に田村
将軍という名をつけて、尊敬するようになりました。