ここへ書いたものが、
嶽水會雜誌に原稿が集まらなくて、僕のものや中谷のものが轉載されたことがあつた。
九月に入ると、肥州温泉ヶ
嶽が、数日にわたって鳴動した。
宗教上の圧迫も残虐で宗徒を温泉(雲仙
嶽)の火口へ投げ込んだりした。
白布の高湯は、少し前がつまって居るが、其でも、両方から出た端山間に、遠い朝日
嶽など言う山の見える日が多い。
顔は
嶽風と雪焼けで真っ黒に荒れ、頬は多年の苦労にげっそりと削けている。
翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子が
嶽の麓を指して出掛けた。
それが濟めば、苟くも病人不具者でない限り、男といふ男は一同泊掛で東
嶽に萩刈に行くので、娘共の心が譯もなくがつかりして、一年中の無聊を感ずるのは此時である。
當時の事情からいうても、新來※々の佛教に弘布の餘裕なく、從つて五
嶽の道士と衝突する筈もない。