秋津洲・磯城島と倭、みな大和
平原における大きな村の名であった。
秋津洲・磯城島と倭、皆大和
平原に於ける大きな村の名であつた。
底本:「日本随筆紀行第五巻 関東 風吹き騒ぐ
平原で」作品社
峰々の谷に抱かれた雪の滴を集めて流れて、梓川は細長い上高地の
平原を、焼岳の麓まできた時に、神の香炉から流れ出たラヴァはたちまちにその流れを阻んだ。
七八月の炎熱はかうして
平原の到るところの街々に激しい流行病を仲介し、日ごとに夕焼の赤い反照を浴びせかけるのである。
奉天を出発した時は、まだ、満洲の
平原に青い草が見えていた。
と、涯しのない緑の
平原と雲の色が、放浪の孤独とやるせなさにむせんで見えた。
(b)一方では彼等は黄河の流に沿うて、河南府(河南)附近の
平原に出で、それから更に三方面に發展して往つた。
源吉たちの家は、この吹きツさらしの、
平原に、二、三軒づゝ、二十軒ほど散らばつてゐた。