ここは自分に
憶い出の多い小舎である、六年のむかし、槍ヶ岳へ上る前夜、この小舎へ山林局の役人と合宿したとき、こういう話を聞いたからで。
しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾が、まるで翼をひろげた蛾のように、ものものしく結ばれていたと云う、驚くべき記
憶さえ残っている。
一幕見の立見に金網の張つてあつたことは相当いつまでも記
憶され、伝へられても、さればどんなものがどの位の見当に張つてあつたか、といふことは、逸失され易い。
あああの絵は……そうだ、あそこの大きい縮図帖のどの辺に閉じてあるはずだ、と実に微細な点に至るまで明瞭に記
憶されている。
「さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか
憶い出せない。
薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、——しかしその記
憶さへも、年毎に色彩は薄れるらしい。
薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、——しかしその記
憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。
編輯は神谷鶴伴といふ人であつたと記
憶されてゐるが、其雜誌の歌壇の選者が服部躬治氏であつた。
』といひ、はた「智慧さへ、追
憶さへ、深き悲みには要むるところなし、たゞ一事の学びえて忘られぬあるのみ、この野の小草こそは一茎三花を着けたれ。
この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝——今日安徳天皇として記
憶されている——と共に、まったく滅亡した。