しかし季題は
無用にしても、詩語は決して
無用ではない。
しかし〈志怪の書〉について、その事実の有無を論議するのは、
無用の弁に近いかとも思われます。
一、乏しい所持金のうちから墓地を買うことなど断じて
無用たるべきこと。
さりながら人気の奴隷となるも畢竟は俗物済度といふ殊勝らしき奥の手があれば強ち
無用と呼ばゝるにあらず、却て之れ中々の大事決して等閑にしがたし。
無用の天狗を造り、邪魔を為さするは、何と云う事ぞ。
二丁目の我が借家の地主、江戸児にて露地を鎖さず、裏町の木戸には
無用の者入るべからずと式の如く記したれど、表門には扉さへなく、夜が更けても通行勝手なり。
意味の妥当問題は意味の存在問題を
無用になし得るものではない。
次ぎに本篇二頁下段「余は幼なきころより厳重なる家庭の教へを受け云々」より以下六十余行は殆んど
無用の文字なり。
然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝せんとする此遺書の如きも、結局
無用の故紙たると何の選ぶ所か是あらん。
右様の儀は、日頃御信仰の泥烏須如来に御頼みあつて然る可く、もし、たつて私、検脈を所望致され候上は、切支丹宗門御帰依の儀、以後堅く御
無用たる可く候。