徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言はれたさうだが、父が使ひ果して私の
物心ついたときはひどい貧乏であつた。
文化が健全に進むにつれて国民の生活が向上し、それによつてまた
物心両面ともに国力が増大するといふことがいへるのであります。
こゝで云ふ「生活」とは、もちろん、
物心両面の生活です。
物心のつく頃から、兄一人妹一人で、育つて来てるんですから、かうして一生、お互の世話になつて暮すなんていふことが、それほど不自然には思へないんですの。
私の家というのは、私が
物心を覚えて以来、ずっと貧乏で、一町ばかりの田畑を小作して得るわずかな収入で、親子四人がかつかつ暮していたのです。
夫というのは石工であったが、このへんのたいていの労働者と同様パリへ仕事に行っていて、わたしが
物心ついてこのかた、つい一度も帰って来たことはなかった。
今でこそあの辺は京の真中になって賑やかなものだが、ようやく
物心ついた頃のあの辺を思い出すと、ほとんど見当もつかない程の変りようだ。
すなわち
物心という二要素が強いて生活の中に建立されて、すべての生活が物によってのみ評定されるに至った。