月東山を離るといふの句は詞客の套語となれりといへども、実は水に近き楼台の先づ清輝を
看るを得るの多趣なるに如かず。
僕は最近、はからずも屍体解剖を
看るの機会を持った。
主題は平明で厳粛で、祈りの歌に似た昂揚性をもち、しかも、読者の頭次第では、真実の適度の深さにおいて、力強い思想の結実を
看ることができるのである。
僕は、似而非玄人の前に尻込みをしてゐる素人に、「今が俳優になり時」であることを告げて、僕の言を聴いてくれた人と共に、機を
看るの明を誇りたいと思ふ。
わたくしはあの狂言を
看るたんびに、いつも思い出すことがあるんですよ」と、半七老人はつづけて話した。
農村の老幼の風俗などでも、自分は何の氣もつかず看過して終ふところを、おもしろいといはれて氣がついて
看ると、成程一寸おもしろい、と思はれることが度※有つた。