日本人は宗教心を持たない代りに、手軽な諦らめとあんまり
筋道のはつきりしない愛他心とに恵まれてきました。
私の吐くに至る
筋道がどうもそう感じられるという程度のバクゼンたるものではあるが。
翁が、田楽の「中門口」に相当する定式の物となつた
筋道が、幾分でも訣つて貰へるやうに致したいと存じます。
この一派は、勿論、既成美学の破壊、従つて、在来の演劇の否定に進みつつあるのであるから、普通、
筋道の通つた戯曲や演劇は、彼等から軽蔑され、敵視されてゐる。
「お話の順序として最初に松茸献上のことをお耳に入れて置かないと、よくその
筋道が呑み込めないことになるかも知れません。
かれにはそうするつもりは全くなかったのであるが、ふとしてそういうことになったのを、必然の
筋道に牽かされたものとして解釈している。
無役ながらも千二百石を賜わる天下お直参のわが屋敷じゃ、踏ん込んで参るにしても、それ相当の
筋道が要るによって、まだ大事ない。
多樣で、斑で、そして小心な「我」は不幸にも主義によつて一
筋道に攝しられてゐない。
さて象徴詩がどういふ
筋道を通つてわが詩壇に導かれたかは、今こゝに述べにくい。